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JX-ENEOSサンフラワーズ所属の藤岡麻菜美選手。
2017年バスケットボール女子U24 4カ国対抗大会でも日本代表のキャプテンを務めているポイントガードの選手です。
今回は、気迫あふれるプレースタイルやプライベートに迫るべく、『藤岡麻菜美(バスケ)は怪我に負けない!バッシュや高校などwiki風プロフも紹介!』をテーマにお届けします。
どうぞ最後までお付き合いください。
藤岡麻菜美は怪我に負けない!
(https://bit.ly/2WqXEQI)
2017-2018シーズン開幕直後、「骨盤の剥離骨折と腱断裂」によって戦線離脱していました。
前例のない症状だけにリハビリが長期間続いた結果、藤岡麻菜美選手(以下、藤岡選手)のリーグ戦出場はわずか2試合。
所属チームのJX-ENEOSはリーグ10連覇の偉業を達成したものの、藤岡選手は蚊帳の外という状況でした。
ここまでくると、次の一歩を踏み出すときに、また怪我をするのでは?と不安になることもありますよね。
「本当にバスケをできるのかという焦りが常にありました」と、リハビリ期間の様子を語る藤岡選手ですが、怪我をしても得たものがあったそうです。
「苦労があるからこそ説得力があり、周囲に影響を与えられる。」
「ベンチで見ている時も「自分ではこうやる」とイメージしながら見ている」
と、常に前向きな姿勢を崩しませんでした。
やはりメンタル面が整った選手なのですね。
そこが礎(いしずえ)になっているようで、培ったものは藤岡選手を強く支えています。
大怪我をする前の2016年より「東京オリンピックに一番手のポイントガードとして出場する」という目標を公言していました。
その想いをきっと体現してくれることでしょう。
藤岡麻菜美のバッシュは?
さて、そんな不屈の精神をもつ藤岡選手ですが、プレーヤーとして重要なのがバッシュです。
抜群のパスセンスと力強いドライブが持ち味の藤岡選手。
切り返しなどでバッシュもキラリと光ります。
どんなバッシュかというと、アシックスの「GLIDE NOVA FF」のブルーです。
白や黒がバッシュでは多い中、ブルーは目立ちますよね。
藤岡選手を見つけやすい気もします。
しかし、現在はというと、2019年6月のtwitterをみてたら、白ベースの紺!!
(https://bit.ly/2WgPsOc)
おそらく GLIDE NOVA FFのホワイト版だと思われます。
アシックスのGLIDE NOVA FFがお気に入りのようですね。
藤岡麻菜美プロフィール
(https://bit.ly/2R18KpX)
名前:藤岡 麻菜美(ふじおか まなみ)
コートネーム:ネオ
生年月日:1994年2月1日(25歳)
出身地:千葉県
血液型:O型
身長:170cm
足のサイズ:26.0cm
出身校:中山MBC → 市川第四中学校 → 千葉英和高校→ 筑波大学
所属チーム:JX-ENEOSサンフラワーズ(2016-)
ポジション:ポイントガード
コートネームはギリシャ語の「新しい」という意味で、チームに新しい勢いをもたらしたいという願いをこめて「ネオ」と名付けられているといいます。
さて、いままでの成績はというと、中学校(市川四中)も高校(千葉英和高)も、全国大会の常連のような強豪ではありません。
しかし、U-16~U19と日本代表を経験し、U-18アジア選手権で準優勝。
卒業後は筑波大学に進学し、2015年ユニバーシアード日本代表に選出され4位の成績をおさめています。
まさに、メンタルもフィジカルも整っている藤岡選手から目が離せません。
そんな藤岡選手のプレー動画を最後にご覧ください。
引退を発表
(https://bit.ly/3eS2J9t)
(2020年6月追記)
2020年5月、藤岡選手は引退を発表しました。
「心身ともに、今の自分には頑張れるパワーが残っていなかったというのが決断した理由です。」
残念ですね。しかし、これからは指導者として活躍していくようです。
これからは指導者としてバスケットに関わり貢献していきたいと思っています。
次世代の子ども達に、自分が経験してきた事を伝えていきます!
また指導者として目標をきめて、コツコツと積み重ねて、また大きなことを有言実行していきたいと思います。
ミニバスから20年間バスケ一筋に打ち込んできた藤岡選手。
バスケに関わっていくのは嬉しいですよね!
それに、バスケ大好き人間は、そんなにすぐ離れられないですよね。笑
まとめ
・大けがを乗り越えて、新たな風を吹かせる日本代表の1人
・ファンにみてほしいプレーは、ドライブとアシスト
・アシックスのGLIDE NOVA FFのバッシュを使用
大怪我からのリハビリ、日本代表での司令塔の立ち位置など多くのことを経験し、それを糧にしている藤岡選手。
2016年から抱いていた「東京オリンピックに一番手のポイントガードとして出場する」。
本当に残念ですが、その夢は叶いませんでした。
しかし、これからは指導者としてオリンピック選手を育てていって欲しいと思います。
藤岡選手の第2の人生を応援していきましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。